自分を変えようとして、なかなか変わることが出来ず、そんな自分に嫌気がさしている人がいる。
自分を変えようとすることは、しばし自分を痛めつけてしまうことがある。
ストイックに今の自分を否定して、違う自分になろうとするよりも、今の自分の中にある様々な思いや感情を一つ一つ認め感じていくようにしてみることをお薦めしたい。
そうしていけばいつの間にか、自分を変えようとしている自分から解放されていることに気づく瞬間に出会えるかもしれない。
5月 2022のアーカイブ
人から見捨てられるならまだしも・・・
人から見捨てられるならまだしも、自分自身から見捨てられてしまったら人生が終わってしまいかねない。
私たちは生きているうちにいったい何人の自分を見捨てているのだろう?
人に気を使えない自分は・・・×
人の輪を乱してしまう自分は・・・×
人に迷惑をかけてしまう自分は・・・×
人から愛されない自分は・・・×
等とそんな自分はまるでいないほうがいいと切り捨てていくかのように・・・
様々なことがうまくできない未熟な自分を、育てていくことなく見捨ててしまえば、成長することなく劣等感の塊になり、卑屈になってうまくできる人をただ羨んだり、憎んだりするようになったりする。
未熟な自分は、それ自体が悪なのではなく、人との信頼し合える関係性の中で癒し育てていくことが可能な『手助け求めている自分の一部』なのである。
失われた自己を探し求めて
自分を生きているようで自分を生きている気がしない・・・
自分はいったい何がしたいのか?
何のために生きているのか?
自分に価値などあるのだろうか?
そもそも自分を生きることがよくわからない・・・
このようなことを思ったり、感じたりすることがあるとすれば、自己を喪失したまま生きているのかもしれない。
ではいつどこで自分を失くしてしまったのだろう?
それはもしかしたら何かになろうと頑張り始めたあの頃から始まっていたのかもしれない。
いったい何時から自分ではない何かになろうとしたのだろう?
目指したのは『いい人』ですか?
『優しい人』ですか?
『気の利く人』ですか?
それとも人から認められる人? 人から一目置かれる人? 人から頼られる人?
皆と同じように生きられる人? 平均的な普通の人? 人に迷惑をかけない人?
例を挙げればきりがないが、本当の自分はいったいどこへ置いてきてしまったのだろう?
愛が欲しいけど得られないのは・・・
愛を欲しがる人ほど、愛を拒絶していることがある。
欲しい欲しいと思ってはいるが、
内心そんなもの手に入るはずがない・・・
私など愛されるに値しない・・・
等と思っていたりする。
まるで心の中でアクセルとブレーキを同時に踏んでいるようなものだ。
この状態で何年生きたとしても、自分が望んでいる愛は得られることはないだろう。
アクセルを踏むのが先なのか、ブレーキから足を話すことが先なのか、
どうしたら望んでいるものが得られるのか、立ち止まって冷静に考えてみることも必要な時がある。
自立しなくちゃと頑張ってはみるものの・・・
人を頼らず 何でも一人で出来るようになることだけが自立というわけではない。
それが出来るうちは良いかもしれないが、病気や怪我、平常を保つことが出来なくなるほどの心の不調など様々なトラブルに遭遇した時、自分一人ではどうにもならなくなることが人生には起きたりする。
そんな時に誰をも頼ることができず、問題を抱え込んだまま自ら命を絶ってしまったり、自暴自棄になって破壊行動に走るのであれば、それは自立の結果と言えるだろうか?
自立と孤立は別物である。
また自立と依存は対立するものではなく、バランスをはかるものである。
それは夫婦関係・親子関係・恋人との関係・友人関係・自然との関係、あらゆるものとの関係性において言えるのではないだろうか。
辛い時に人に助けを求めることや、人と適切につながれることも自立のバロメーターの一つになる。
意地を張って一人で頑張り過ぎず、人様の協力を得たり、サポートを得るなど、自分の弱さを認め開示していくことも真の自立への一歩となるのである。
春はどうして心の不調が起こりやすいの?
春はどうして心の不調を訴える人が増えるのだろう?
それは溜めていたものが出てくる季節だからだ。
多くの植物は春に芽吹きを迎えたり花を咲かせたりする。
冬の間に蓄えていた力を暖かくなると共に外に吐き出していく。
人間も今まで溜めてきたものを、自然に吐き出したくなる季節なのかもしれない。
今まで自分の本当の気持ちを抑えたり、出すのを我慢して心の均衡を保ってきたものが、思わず噴き出してきそうになる。
それでも必死に自分をごまかして
抑えよう・・・
なんとか我慢しよう・・・
などとすればするほど、平常心を保つことが難しくなって気が狂いそうになる。
或いは自分が猛烈に無くなってしまうような恐怖を、感じるようになるかもしれない。
こんな心境になったらどうすればよいのだろう?
蚊の鳴くような声で叫んでいる本心の声を、あるいは心の中で大暴れしている荒くれ者の言い分を、何らかの形で表現することがその近道になる。