人は自分と近い存在程、同じでありたいというような欲求を持っていたりする。
考え方や価値観が似ている方が、一緒に居て違和感を感じ辛いし、何かと共感が出来て解り合いやすいからだ。
しかし家族のカウンセリングをしていると、家族の成員は似て非なる存在であることが多いと感じる。
父親と息子は、顔が似ているようで中身が違っていたり、母親と娘は性格が似ているようで生まれ持った質が異なっていたりする。
それ故親子で価値観が合わなかったり、気が合わなかったりして不和が生じやすいという傾向も観られる。
そこへもってきて家族なんだから解り合えるはず、長い間一緒に居るのだから解るはずという甘えのような気持を互いがどこかに持っているため、余計に解り合うことが妨げられてしまっていたりもする。
家族だからこそ、近い人だからこそ、そうした思い込みを手放し、価値観の違い、質の違いを冷静に見極め認めたうえで、関係性の再構築を心掛けることが必要になる時があるのである。
今までなんとなく一緒に居られた人とも、一旦距離を置いてその人の本質や、関係性を見直す時期があるということを心に留めておきたいものである。
私が今こうなっている理由
今自分がこうなっているということにも、必ず理由がある。
理由というのは、自分がこうなってしまった言い訳のことではない。
言い訳というのは、 自分を正当化するために事情を説明しようとする節がある。
しかしそれでは何も解決はしない。
物事が上手くいくことにも、上手くいかないことにも、それぞれに理由がある。
自分が今こうなっていることの理由ついて、客観的に把握することが出来れば、今後の見通しが立てられるようになる。
しかし自分が今こうなっている理由が解らないまま何とかしようともがき、努力をしたとしても、かえって問題が複雑化したり深刻化してしまう可能性がある。
今自分に起こってきていることは、良いことでも悪いことでもないと捉え、なぜこうなったのかを冷静に振り返っていきたいものである。
傾聴することで・・・
ふとした時に心に物足りなさや、寂しさのようなものを感じることはありませんか?
仕事も、人間関係も、お金も、家族も、それなりに問題があるわけではないのに、なぜか満たされない感覚が心の中に存在している・・・
自分はいったい何を求め、何を欲しているのだろう?
そんな時に自分が手に入れられないでいるものは何だろうかと考えてみる。
もしかしたらそれは、手に入れるものとは違う何かなのかもしれない・・・
誰かと共にいる、人と共にいる、自分は一人ではない、そんな実感を得られていたのは、いつの頃のことだったろう?
傾聴体験はそれを実現させてくれる一つの機会でもある。
【7月30日:心の声を聴く傾聴講座の感想:50代女性】
昨日はお世話になりました。また講座に参加の声掛けをしてくださりありがとうございました。自分と向き合う良い時間になりました。
そして共感すること相手を自分を感じることができ、心の声を聞く傾聴の感覚を掴めたように感じました。
この感覚を忘れない様引き続き私生活でも活かしていこうと思います。
形を整えることに・・・
ものごとの形を整えることばかりに気を取られていると、自分自身が置き去りになってしまうことがある。
今日はあれをしてこれをしてと、外側のことばかりに意識を向けていることで心の内側がスカスカになることがある。
あの人に○○して、この人に××してと人を喜ばせたり気を使うことに一生懸命だと、自分自身の気が枯れてくることがある。
ものごとの形を整えることはある意味必要で、整っていることは心地の良いことではあるが、そればかりに気を取られていると、自分の本心が寂しさや虚しさを感じるようになるかもしれない。
ものごとの形が整っているにもかかわらず、もし疲れている自分や、なんとなくモヤモヤする気分や、虚しさのようなものを感じるようなら、それだけでは満足していない本心の自分がいるのかもしれない。
いつの間にか置き去りにされてしまった本心の自分は、いったい何を望んでいるのだろう?
人が好きになれない・・・
心のどこかに人嫌いな自分はいないでしょうか?
あの人は嫌だ、この人は苦手だ、あの人とは合わない、この人は怖い・・・
等と思い、出来れば人と接触することを避けたいと思ったりする。
そんな思いを抱えつつ人間社会の中で生きていくのは、辛いことかもしれない。
もしこのような状態に自分がなってしまっていたなら、どうすれば少しは楽になれるのだろう?
このような時は、少しだけ人に対して向ける視点を変えると良いかもしれない。
人は他者を通じて自分を観るという傾向がある。故に他者は自分を映し出す鏡とも言える。
人を恐れたり拒絶するような思いが自分の中にあるということは、自分の中にも自分自身を恐れたり、否定している自分がいる可能性がある。
そこで自分自身に質問をしてみて欲しい。
怖いと感じる自分はどんな自分ですか?
嫌だと感じる自分はどんな自分ですか?
好きになれない自分はどんな自分ですか?
苦手に思う自分はどんな自分ですか?
この質問によって出てきた自分の姿は、今までの人生で認めてもらえず傷つき苦しんでいる心の一部でもある。この辛く苦しい状態の自分こそ癒しが必要な心の部分なのである。
そんな傷ついた自分の心を癒すことから取り組んでいくことで、少しずつ苦しみから解放されていくようになるのである。
心が冷めていると
心が冷めていると、そのうち人に対しても自分に対しても冷たい態度を平気で取るようになることがある。
たとえ良いことが起こったとしても、たまたまなどと思ったり、人から優しくされたり褒められたりすることがあったとしても、どうせその時だけだろうなどと思ったりする。
こうした心理を抱える人たちの心の裏側には、常に期待が裏切られるというあきらめのような思いがあったりする。
今までの人生の中で、何度も何度も期待を裏切られるようなことがあったのかもしれないし、自分が温めてきた思いを、何らかの形であきらめざるを得なかったことがあったのかもしれない。
そうした心の挫折を何度も体験するなかで、『期待するのはバカバカしい』『どうせ思い通りにはならないのだから』『どうせ自分なんて価値のない人間なのだから』などと考え、期待を裏切られる前に予防線を張っておいて、自分がこれ以上傷つかないようにしておくのである。
しかしこれが習慣化し心の中に定着することで、様々な弊害がその後の人生に付きまとうようになる。
例えば何らかのピンチをむかえた時に踏ん張り切れず、すぐにあきらめてしまうことを選択したり、ここぞという大事な場面で力を発揮することが出来なかったりする傾向が現れたりする。
また心が冷めているせいもあり、人を温かく見守ることや、人のちょっとした幸せをほほえましく思うことが出来ず、逆に嫉妬心に苛まれる傾向も現れたりする。
更に人に対しても冷めた目で見てしまうところがあるので、ついつい人に嫌味を言ってしまったり、冷たい態度をとりがちになったりすることもあるだろう。
また辛い思いをしている人に対しても、慈悲の目を向けるどころか、ザマアミロなどと思うことが多くなったりもするだろう。
冷めた心は、人生の様々なところに弊害をもたらすことが多い。
しかしこれではまずいと気づいて改善しようにも、一旦冷めてしまった心を温め直すのには、それなりの体験と時間が必要になるだろう。
もしこのような状態になってしまっていたら、自分自身の心の癒しと人生の振り返り、 心温かい人たちとの接触、 人間関係の再構築など、大切な人生のプロセスを慌てず一つ一つ丁寧に取り組み直していきたいところである。
人生が前に進まない時(もう一つの観点)
人生がなかなか前に進まず何年たっても同じようなところに居るように感じることはありませんか?
どうしてもその先へ進めないことがあり、まるで見えない壁のようなものが立ちはだかっているように思える時、心の奥底に深いあきらめの気持ちを抱えていることがあります。
例えば末永くお付き合いできる良き仲間を作ることや、人生のパートナーを得ること、一生かけて取り組み続けることが出来る仕事に巡り合うことなど、それを得たいと思っていても、あと一歩のところで逃してしまったり、なぜか途中でダメになるということが繰り返し起こるような時です。
また心の奥底に深いあきらめがあるのは、まだ幼かった頃に両親との関係性や、その他の人との関係性の中で、愛すること・愛されることをあきらめてしまう何らかの決断があったことによるものが多いのです。
例えば幼い頃両親に愛されたくて、一生懸命自分を何らかの形で表現したけれど、受け入れてもらえなかったことや、両親の忙しさや大変さを観て、自分を主張することや表現することを止めてしまったことによるものだったりします。
幼い時にしたあきらめの決断は、心の中で強い影響力を持ち、そのあきらめを通して物事を見たり、自分があきらめているような結果を現実に引き寄せたりするよう無意識のうちに働きかけるようになります。
そうすると人生で体験する様々なことが、最終的にネガティブな結果となっていくことが多くなります。そして『やはり自分は愛されないんだ(大切に思ってもらえないんだ)』、『自分の愛は受け取ってもらえないんだ』などと思う気持ちを更に強化してしまうようになっていくのです。
もしこのような状態を何度も経験するようになると、頑張って努力すればするほど最終的に辛い思いをするようになるため、年を取る毎にあきらめの気持ちが強くなるという悪循環に陥ってしまいます。
人生はとり様によっては、生きている分辛くなっていくこともあるのです。
ですので少しでも満足いく人生を送るには、このような悪循環ループから脱却してく必要があります。
それには乗り越えようと頑張って努力することよりも、心の奥底にある深いあきらめにアプローチをして、それを解放していくことを試みることです。
これは決して簡単な作業ではないかもしれませんが、まずはそこへ目を向けようと思うことから、解放へ一歩が始まります。
少しだけ勇気をもって、今まで目を向けきれていなかった方向へ進んでいきましょう!
賢く生きようとするより
人間は賢く生きるより、体験することに重きを置いているところがある。
上手くいかないとなんとなく感じていることでも、それをやってみなければ、実感を得ることはできない。実際に体験することで身に染みることがある。
それをやったら楽しいと思うことも、実際してみなければどんな体感が得られるのかわからない。だからそれをしないでいると、いつも心の中に悶々としたものを抱えることになる。
人間は体験してみたいことがいろいろある。そしてその体験から得られることがたくさんある。
上手くいった体験が、その後の人生に良い影響を及ぼすとは限らないし、
上手くいかなかった体験が、その後の人生に悪い影響を及ぼすとは限らない。
どのような体験をしようとも大切なのは、自分が体験したことから得た気付きや教訓を、その後の人生に活かそうとする心持ちではないだろうかと思う。
こんなことしなければよかったと後悔したり、どうしてこんなことになってしまったのだろう?などと思うようなことも、その体験から学び、これからの人生に活かしていくことは、自分自身の心持次第で可能になるのである。
問題の解決策に捉われることで
自分に降りかかってきた問題を一刻も早く解決しようと、その解決策ばかりを考え対処しようとすることがある。
問題の解決策に捉われることによって、その問題の本質を捉えることがなければ、一旦は消えたとしても、あらゆる形でその問題が再び浮上してくるようになる。
例えば病気になったから、それに応じた薬をただ飲むことだけを考えることだったり、
人とトラブルを起こしたことが辛くて、以降それを避けるために相手に合わせた対応を取り続けることだったり、
子供が不登校になったから、学校に行くようなるにはと解決策ばかりを考えること等である。
しかし本来その対処法では、何の解決にもならないことがある。
もしかしたらその病気を引き寄せたのは、偏った思考からくる何らかの習慣が体に悪影響を与えているのかもしれない・・・
人とトラブルを起こすのは、自分は尊重されていないという思いが根底にあって、その思いを他人に対して抱いてしまうからなのかもしれない・・・
子どもが不登校になるのは、夫婦が仲良くして欲しいからなのかもしれない・・・
何かの問題が起こると私たちは、その解決法ばかりに目が行ってしまいがちだが、その問題が発生した要因や本質に目を向けない限り、その問題が根本的に解決することは残念ながら無いのである。
仕事をしていてやる気が下がってくるのは?
仕事をしていてどうもやる気が起こらなくなってきたり、会社に行くのが億劫になるのは、その仕事をやり過ぎているか、人間関係がうまくいっていないかであることが多い。
特に人間関係の例でいえば、上司に認めてもらえなかったり、一緒に働いている人たちと気が合わなかったり、心が通じ辛かったりするなど、ストレスを感じることが多くなった場合、最初は一生懸命に取り組めた仕事も、だんだんやる気が失せてくるようになったりする。
人は人の間で生きているので、仕事自体は出来ても人間関係で躓いてしまうということがよく起こりがちである。そうするとせっかく持って生まれた豊かな才能を生かすことが出来ず、残念な結果に終わってしまうこともあるので注意したいところである。
人間関係の問題を解消していくには、職場を変えるというのも一つの手だが、根本的な関係性の課題が解消されていないと、また次の場所でも同じような目に遭うことがある。
人間関係で躓いたり、どうしてもうまくいかないことが続く場合は、自分の関係性の課題を見つめて心の内側(潜在意識の部分)から解消していく必要があるのである。