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お知らせ&心のコラム
自立の陰にあるもの依存の陰にあるもの
人を頼りにせず、自分で何でもしようとする人の心の中には、
自立という名の孤立がどこかに潜んでいるのかもしれない。
逆に人を頼りにばかりしている人の心の中には、
依存という名の自己喪失がどこかに潜んでいるのかもしれない。
何れにしても、心のどこかに人に対する『不信』の思いが見え隠れするのは否めない。
自立は他者への不信、依存は自己への不信。
人生のどこかの地点で、
『人(他人)は信じない方が良い』
『自分を頼りにできない (頼りにしない方が良い) 』
という冷めた考えを獲得したのかもしれない。
最初から自分も人(他人)も信じていなければ、
何かあったとしても、そんなに傷つくことは無いのだからと・・・
人は皆それぞれ異なった存在なのに・・・
人はそれぞれ皆異なった存在なのに
皆と同じでないと不安に思うところがある。
人はそれぞれ皆人生のプロセスが異なっているのに、
人と同じようなプロセスを歩んでいないと不安に思うところがある。
それだけ人は、孤独感や疎外感をあまり味わいたくないと思う存在なのかもしれない。
しかし皆と同じであろうとして、自分を失ってしまうのであれば、それはまた寂しいことである。
他の人と自分のあらゆる違いを感じることを通して、自分自身を見出してみようと考えられたら、心に少し余裕を持てようになるかもしれない。
親に対して様々な反応をする子供たち
親の重荷を背負って生きている子供がいる。
そのような子供は、親の愚痴を聴いていることが多い傾向がある。
親に迷惑をかけまいと必死で自分の欲求を閉じ込めて生きる子供がいる。
そのような子供は、人の欲求が手に取るようにわかるが、自分の欲求には疎くなってしまい、そのことで後々ストレスを溜め込むことが多くなる傾向がある。
親にどうにか目を向けてもらおうと、様々な問題を親に投げかける子供がいる。
そのような子供は、親をさんざん困らせ、他人からは面倒な子と思われることが多くなる傾向がある。
親の言いつけを守って自分の存在を認めてもらおうと、一生懸命頑張って生きている子供がいる。
そのような子供は、比較的若いうちに生きることに疲れ、燃え尽きてしまったり、自分が何をしたいのか分からなくなってしまう傾向がある。
これらの傾向は、子供にそれぞれ個性があるため、全てに当てはまるとは限らない。
しかしこのような成育のプロセスを経て、両親をはじめとする人との関わりの習慣が身に付いてしまったが故に、大人になってからもその習慣が抜けず苦しんでいる人がたくさんいるのは確かである。
こうしたことで苦しんでいる人たちは、自分自身の関わりの傾向性を知ったうえで、その改善に取り組んでいきたいところである。
こんなに思ってしているのに・・・
相手のことを思ってしていることが、相手にちっとも喜ばれないことがある。
人の為と思って自分を犠牲にして頑張っていることが、人からそんなことまでしなくてもいいのになどと思われていることがある。
人に喜んでもらおうと思ってしていることが、逆に迷惑に思われていることがある。
どうしてこんなことが起こるのだろう?
なぜ相手に理解してもらえないのだろう?
自分のやり方がまずいのだろうか?
自分の存在に価値が無いからなのだろうか?
それとも理解できない相手に問題があるのだろうか?
心の冷たい人なのだろうか?
様々考えは巡るけれど、こうだという答えはなかなか出てこない・・・
しかしこうなるのには、必ず何らかの理由がある。
それはいったい・・・?
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いつも一緒に居る人だからこそ
人は自分と近い存在程、同じでありたいというような欲求を持っていたりする。
考え方や価値観が似ている方が、一緒に居て違和感を感じ辛いし、何かと共感が出来て解り合いやすいからだ。
しかし家族のカウンセリングをしていると、家族の成員は似て非なる存在であることが多いと感じる。
父親と息子は、顔が似ているようで中身が違っていたり、母親と娘は性格が似ているようで生まれ持った質が異なっていたりする。
それ故親子で価値観が合わなかったり、気が合わなかったりして不和が生じやすいという傾向も観られる。
そこへもってきて家族なんだから解り合えるはず、長い間一緒に居るのだから解るはずという甘えのような気持を互いがどこかに持っているため、余計に解り合うことが妨げられてしまっていたりもする。
家族だからこそ、近い人だからこそ、そうした思い込みを手放し、価値観の違い、質の違いを冷静に見極め認めたうえで、関係性の再構築を心掛けることが必要になる時があるのである。
今までなんとなく一緒に居られた人とも、一旦距離を置いてその人の本質や、関係性を見直す時期があるということを心に留めておきたいものである。