愛からの行為は、 繁栄 ・調和をもたらすが、
欲からの行為は、不調和・行き詰まりを生じさせる。
物事がうまくいかないと感じたり、行き詰まりを感じる時、
それはどんな動機から自分が起こした行為の結果なのかを、しっかりと見つめる必要がある。
内なる愛に立ち戻って物事を選び直し、行いを変えていくことができれば、結果は自ずと違った形になっていく。
内なる愛からの行為を選んだ時の感覚は、とても清々しいと感じるものである。
今自分が行っていることについて、清々しいと感じられることは、どのぐらいあるだろうか?
2021年のアーカイブ
この先どうしたらよいのかわからなくなった時
これから何をしていいのか?どうしたらよいのか?わからなくなった時、
誰かに自分を語って、自分の耳で自分の心の言葉を聞くとよい。
今まで自分が歩んできた道のりを語り、
そこで出会った人々とのことを語り、
自分が決めてきたこと、選んできた道について語り、
の心境を語る。
自分をしっかり語ることができれば、自分の在りようが見えてくる。
自分のありようが見えてくれば、今の自分の現在地がわかってくる。
今の自分の現在地がわかってくれば、そもそもどこを目指して歩いてきて今ここにたどり着いたのかがわかる。
それが見えれば、その先の道もおのずと見えてくる。
大切な人にクイズを出されたら?
人は自分の気持ちに気づいてもらいたい人に、その思いを気づいて欲しくてクイズを出すことがある。
何故そうするのかと言えば、そのクイズの答えは、相手にとっても気づくべき価値ある大切なことと考えているからである。
最初から答えを言ってしまえば、相手はそのことを真剣に考えず、それほど大切なことだとも思わないのですぐに忘れてしまうかもしれない。
だからこそ苦労してでも、頑張ってでも見つけて欲しいのである。
日々忙しくイライラするお母さんに対して、子供が自分の気持ちに気づいてほしくて「学校に行きたくないと言って」クイズを出す。
どうしてと聞いてもなかなか答えない・・・
そのクイズの答えは、『学校に行かなくてよい』とお母さん言って欲しいのではなく、お母さんに『もう少しゆったりした気持ちで自分と関わって欲しい』ということだったりする。
これは日々心に余裕がもてずにイライラした感情が募っていくお母さんにとっても大切なメッセージであったりする。
子供やパートナーにこのようなクイズを出された時は、そのクイズの答えを自分の宝探しだと思って見つけるよう心がけるとよい。
それが廻り回って自身の幸せにもつながっていくことだからである。
もし自分でいくら考えてもわからない時は、知恵のある人に聞いてみるのも悪くない。
どうしても解って欲しいと思うことの謎
人にはどうしても解って欲しいと思うことがあったりする。
しかし解って欲しい解って欲しいと思えば思うほど、何故か誰にも解ってもらえなかったりする。
そんな時、自分にはどうしても解ってもらいたいことがあるのだと認めてあげることで、少し気持ちが楽になることがある。
そしてそもそもその思いは、『何時?誰に?解ってもらいたかったことなの?』
と自分に問いかけてみるとよい。
相手に解ってもらいたくてクイズを出す心理
人は自分の気持ちに気づいてもらいたい身近な人に、その思いを理解して欲しくてクイズを出すことがある。
自分から本心を話すことよりも、相手に気づいてもらうことに価値を置くのである。
時々小さな子供を見ていると、親に自分の気持ちを解ってもらいたいがゆえに、そのことを直接言葉で伝えず、親が自分の気持ちに気づいてくれるまで話をしようとしなかったり、親が困るようなことをしては気を引こうとする態度を見かけたりすることがある。
これをされた親の方は、何故わが子がこのような態度をとるのかが解らず困り果てしまうことが多い。そのクイズの答えに到達しなければ、関係性そのものが更にこじれていってしまうことさえある。
それでもその子は、クイズに答えてもらいから答えを決して自分からは言おうとはしない。
そこにはいったいどんなメリットがあるというのだろうか?
クイズを出す人の心理はいったいどのようになっているのだろうか?
これからも自分に嘘をつき続けて生きていきますか?
もうこれ以上自分に嘘をつき続けることはできない・・・
そんな風に感じている人は、このコロナ禍で増えているのかもしれない。
様々なストレスに晒される中、つまらない嘘をついて体裁を整えている場合ではなくなってきているのかもしれない。
お金のために犠牲にしている人生の時間・・・
人に認められるために我慢している潜在的欲望・・・
地位や名誉を守るために犠牲にしてきた本当の気持ち・・・
あるべき姿を自分に課し、人生をいつの間にかつまらないものにしていることが、バカバカしく思える時がやって来ることがある。
もしかしたらこれからは、格好よく噓をついて自分を守ることよりも、
内なる本心を開いていくことの方が、生きやすくなる時代がやって来るのかもしれない。
忙しくて充実しているようにみえて・・・
日々忙しく次から次へと物事をこなして、その時は充実しているような感覚になっていたとしても、ふとした時に我に返り、『あれ、自分は今まで何をやってきたのだろう?』と疑問に思うことがある。
無我夢中で物事に邁進している時には見えていなかったものが、一旦それが収まりひと段落することによって、現れ出てくるものがあったりする。
それは自分の健康状態だったり・・・
家族の中に潜む確執や亀裂だったり・・・
人と人との温かい心の繋がりが失われつつあることだったり・・・
自分の本当の望みを放置してきたことへの虚しさだったり・・・
本当は大切にしたかったはずのものが、いつの間にかおざなりになり、気づいてみれば取り返しのつかないところまで、物事が進行していることもあるだろう。
今はそれどころではない!
今が楽しいのだから問題はない!
今はなにも問題が起きてないのだから大丈夫!
等と言う発想で脇目も振らず物事を続けていくことで、後になってしっぺ返しが来ることがあるので注意したいところである。
何度も苦手な人に出会うのは?
人は大概苦手な人間関係を抱えていたりするもの。
上からものを言う人は苦手・・・
気が強く言い方のきつい人は苦手・・・
遠慮もなく甘えてくる人は苦手・・・
口数の少ない人は苦手・・・
反抗的な言い方をする人は苦手・・・
父親・母親のような人は苦手・・・
兄や姉のような人は苦手・・・
等と言われてみれば、様々な苦手な関係性が思い浮かぶ人もいるかもしれない。
そのような人たちとはできるだけ関係を持たぬよう避けたいところだが、職場・地域・学校・結婚相手・子供など様々な集合体に属していると、なかなかそうもいかなかったりすることが多い。
またそうした環境を嫌で変えたとしても、また同じような人に出会って苦労することが多い。
このようについて回る『人間関係の苦手』は、その人の人生のテーマでもあったりする。
心の底ではその苦手さをクリアーしていきたいという気持ちがどこかにあり、何度も挑み続けているとも言える。
自分が苦手に思う人たちと、仲良く良好な関係を築かなければならないということではないが、せめて折り合いの付けられる関係性でいたいと、誰もが心のどこかで思っていたりする。
なぜならあなたが苦手に思う人は、自分の中にもどこかに潜んでいたりするからだ。
試しに苦手な人を思い浮かべ、自分にもその人が持つ嫌な部分がないか確かめてみるとよい。
それが確認できれば、その人との関係は少し楽になるかもしれない。
つまり苦手な人との仲直りは、自分自身との仲直りを意味するということでもあるのだ。
愛という幻想の中で・・・
人は愛という幻想の中で生きていることがある。
私は愛されている❣
という思い込みの愛。
こんなに愛しているのに ❣
という押し売りの愛。
何か変だと思って真実のふたを開けてみたら、もうすでに愛想をつかされていたり、浮気をされていたことに気づいたりする。
いったい自分は何を愛し、何に愛されていると思っていたのだろうか?
このような思いをするということは、その人たちとの関わりが、表面的だったということでもある。
人には表と裏があり、陰と陽がある。
そしてまた奥深さがある。
どちらか一方を見ていい人だとか、嫌な奴だとか、自分がリスクを背負わない程度の関わりを長期にわたって続けていたとしても、相手の真実は見えてこない。
愛だと思って信じていたものが、いつの日か音を立てて崩れ落ちていくことがあるのは、自分と人との関わりを真に見直す時だよ!というお知らせが届いたということに他ならない。
この悩みいったいどうしたらいいの?
人は生きていると、様々な難題や課題に直面することがある。
この問題はいったいどうしたら解けるの?
誰に聞けばいいの?
難しすぎて途方に暮れることもある。
人によっては自分探しの旅に出たりもする。
しかしどんなに探してもその答えが見つからない時、
最終的な答えは、自分自身の心の奥に隠れていたりする。
その内なる答えを見つけるために、人は人と出会い、様々な体験を通してそれを見つけていくのである。