人間自分のことは自分が一番よくわかっていると言うことがある。確かに誰よりも24時間自分と一緒にいるのは自分なのだから、それはそうとも言えるだろう。
しかしその一方で他人のことはよくわかるが、自分のことになるとよく解らなくなるという人が大半ではないだろうか。
そうした矛盾を人はどこかに抱えて生きている。
常に鏡が自分の前に用意されていれば、少しは自分のこともわかりやすくなるのかもしれないが、それだと今度は自分のことばかり気になって対面している相手に集中することが難しくなるかもしれない。
そう考えていくと、自分自身を観ることと、周囲の状況や他者をバランスよく同時に観る意識を持つことが、大切になってくるのかもしれない。
10月 2022のアーカイブ
どうしてどうして自分はこうなるの?
あらゆる心の悩みや葛藤は、今の自分を受け入れられないことから始まることが多い。
過去の栄光、他者との比較、理想と現実のギャップ、思い通りにいかない現実等々、本来なら○○なのに・・・と今の自分を責めてしまい、余計に苦しみが増幅してしまうことがある。
しかし今のありのままの自分の状態を心から受け入れられれば、そこからどう進んでいけばよいかが自ずと見えてくることがある。
それが起こる理由
様々起きる現象には、それが起こる理由がどこかに存在する。
子どもが不登校になる、または乱暴を働くようになる・・・
自分や家族が不慮の事故に遭う・・・
自分や家族が心の病にかかる・・・
突然会社を解雇される・・・
突然人に怒鳴られる・・・
このようなことが起きると、どうしてこんなことになってしまったのだろう?と嘆いたり、悔しがったり、落ち込んだり、イライラしたりと感情が波立ち、気が狂いそうになることもあるかもしれない。
しかしそうなった理由は必ずどこかにあるもの。
そのことが起こった真の理由を理解し改善に取り組めれば、事態は好転したり、次に同じようなことを起こさない予防線を張ることが可能になる。
しかしその理由がよく解らなかったり、不鮮明だったりすると、どう対処していけば良いのかが解らず、頓珍漢な対処をして事態を余計にこじらせたりしてしまうこともある。
しっかりとそこで起こっていることが何なのか?見極めていきたいものだが、それでも理由が解らない場合は、自分や家族がこうなったのは『何かのせい、誰かのせい、世の中のせい』などにしていないかを検証してみる必要があるかもしれない。
問題の真の理由を見つけられない場合、灯台下暗し等と言われるように自分の足元や、自分自身そのものに注意がいかず、そこが盲点となっていることが多からである。
人は自分を良く思いたい存在だから、それも致し方ないのかもしれない。
人間欲に目がくらむと
人間欲に目がくらむと、真実が見えなくなることがある。
例えばイケメン男性や美しい女性と出会って少々仲良くなり、お付き合いしたい、結婚したいなどと思うようになるが、実際にその人がどういう人なのか見えているとは限らない。
また自分の性質に合っている人なのかどうかは、更に解り辛いかもしれない。
表面は美しくても、内側にはとても大きな心の傷を抱えていることもある。
結婚してみて何でこんな人と結婚してしまったのだろう?と思うことは、人間よくあることだ。
私たち人間は、どうしても表面的なことや目先のことに捉われ、後で後悔するということが時にしてあるもの。自分の心に余裕のない時ならなおさらである。
そんな学びを重ねながら私たちは、人や物事に対する視点を深め、その本質を見つめていくようになっていくのかもしれない。
どうしてもあの人に認められたくて・・・
人は時に縁ある人に認められたくて自分を抑え込み、その人が望む自分であろうと努力することがある。
それをし続けていると、心の調子も体の調子も次第に思わしくない状態になり、なんだか苦しい、辛い、体が重い、やる気が起きないなどの症状が現れるようになる。
自分でもこれはおかしいと思いつつも止められずにいるとすれば、心の中にこれを続けていればいつかその人と心通じ合える時が来るという期待があるのか?
或いはその人を今まで愛せなかった罪悪感から、尽くすことによって承認を得ようとしているのか?
何れにしても自分の体や心を壊してまでそうし続けてしまうというのは、いったいどうしてなのだろう?
そこまでしても解り合いたい通じ合いたいという愛の表現の一つなのかもしれないが・・・
このような関係性は、頑なに自分を曲げることを嫌う我の強い人と、自己肯定感の低い人との間に起こりやすい。
互いを尊重し合い、互いが心を元々の素直な状態に戻すことさえできれば、このようなことは解消していくことが出来ると思うのだが・・・
とは言え人間はなかなか難しいものである。
濃い人間関係の中では
親子・夫婦・兄弟・友人・恋人・上司部下などの濃い人間関係の中では、距離が近過ぎて相手を自分の思い通りにしたいという無意識的で無自覚な欲求が出てくることがある。
その思いに気づいて、すぐに手放すことが出来れば問題は大きくならないが、どうしても相手に○○になってもらいたい!○○してもらいたい!等と過度な期待を知らずの内にかけ続けていれば、相手は次第に窮屈さを感じるようになっていく。
人は本来一人ひとり別個な存在であるが故、その個としての尊厳が保たれていない場合(または本人がそのように感じている場合)、組織や家族や他者の期待に添い続けていくことが難しくなることがある。
今まで真面目に頑張ってきた部下・子供・妻・夫などが、心や体の不調を訴え会社や学校へ行きたくないと申し出るようなら、 そうなった経緯をその人の気持ちに寄り添つつ丁寧に聴くことから始めたいものである。
向き合うことと距離を置くことⅡ
自分自身に対しても向き合うことと距離を置くことは、どちらも大切なスキルである。
自分としっかり向き合って本当にどうしたいのか? 本心は何と言っているのか?
向き合うことで自分にとってベストな選択をすることが可能になることがある。
一方で様々な感情にとりつかれて混乱してしまっている時や、様々な出来事や整理しなければならない事が多すぎてどうしてよいか解らなくなる時などは、混乱した自分から一旦距離を置いて、少し高い視点や遠くの方から客観的に自分を眺めてみたいものである。
そうすることで今の自分の在り様や、必要なこと、手放した方が良いことなどが見えてくる。
それも難しい場合は、あるがままにあなたの話を聴いてくれる人に話を聴いてもらうとよいかもしれない。
何れにせよ悩んだ時は、自分に近づいたり離れたりしながら自分自身を感じていきたいものである。
向き合うことと距離を置くことⅠ
人と向き合うことと距離を置くことは、どちらも大切なことである。
家族・友人・学校や職場の人たちと人間関係を構築していく時、向き合うことと距離を置くことの両方が必要になる。
人と距離を置いてばかりでも、親密さが持てずに寂しくなることがあるだろうし、向き合いすぎても苦しくなることがあるだろう。
人はそれぞれ違った個性を持っているから、その人によって心地良い距離感や親密さも異なっている。
もう少し突っ込んだ関わりをしたいと思っている人もいれば、さらりとした関係を望む人もいる。
様々な人たちと関わっていく中で、共通項の多い人は近く感じ、そうでない人は遠く感じるかもしれない。
家族をはじめ様々な人間関係を大切にしたいと考える時、好きだ嫌いだで感情的になって共依存的になったり断絶したりするよりも、向き合うことと距離を置くことの妙味を楽しめるようになりたいものである。
人は様々な思いを背負って生きている
私たちは両親の思いや先祖の思いを、意識的にも無意識的にもどこかで背負って生きているところがある。
それに気づいて自分の人生に生かしていくことも出来るし、気にも留めずただなんとなく生きていくこともできる。
もし気付いていれば、自分が今味わっている辛い思いや苦しい思いも自分だけがしているのではない、これは先祖代々から受け継いでいる人生のテーマなのだと思えるようになるかもしれない。
自分が情熱的になって取り組んでいることや達成して感動していることも、実は何代にもわたって先祖や両親が夢見ていたことかも⁉と思えてきたりするかもしれない。
そんな風に思えてくると、決して自分は一人ではないのだと実感してくる。
自分の人生を多くの存在達が共に歩み後押ししてくれていると背中に感じることが出来たら、なんと心強いことだろう。
心のつながりを持てないと
人は他者との心のつながりを持てないと、苦しむことが多くなる。
なぜならば、起きる問題に対して全て自分で背負い解決しなければならなくなるからである。
他者との心のつながりが持ち難くなるのは、幼いころの養育者とのコミュニケーション不足や、信頼関係構築が不十分だったことに由来することが多い。
それらを見直しつながりを持てる心への再構築
していくには、それなりの時間と労力が必要となるが、じっくり丁寧に取り組んでいくことが出来れば、それも可能になることが多い。
もし人との心のつながりが持ち辛く苦しむことが多ければ、ご縁があって愛ある人と関係を持つことから始めたいものである。
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