人間欲に目がくらむと、真実が見えなくなることがある。
例えばイケメン男性や美しい女性と出会って少々仲良くなり、お付き合いしたい、結婚したいなどと思うようになるが、実際にその人がどういう人なのか見えているとは限らない。
また自分の性質に合っている人なのかどうかは、更に解り辛いかもしれない。
表面は美しくても、内側にはとても大きな心の傷を抱えていることもある。
結婚してみて何でこんな人と結婚してしまったのだろう?と思うことは、人間よくあることだ。
私たち人間は、どうしても表面的なことや目先のことに捉われ、後で後悔するということが時にしてあるもの。自分の心に余裕のない時ならなおさらである。
そんな学びを重ねながら私たちは、人や物事に対する視点を深め、その本質を見つめていくようになっていくのかもしれない。
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どうしてもあの人に認められたくて・・・
人は時に縁ある人に認められたくて自分を抑え込み、その人が望む自分であろうと努力することがある。
それをし続けていると、心の調子も体の調子も次第に思わしくない状態になり、なんだか苦しい、辛い、体が重い、やる気が起きないなどの症状が現れるようになる。
自分でもこれはおかしいと思いつつも止められずにいるとすれば、心の中にこれを続けていればいつかその人と心通じ合える時が来るという期待があるのか?
或いはその人を今まで愛せなかった罪悪感から、尽くすことによって承認を得ようとしているのか?
何れにしても自分の体や心を壊してまでそうし続けてしまうというのは、いったいどうしてなのだろう?
そこまでしても解り合いたい通じ合いたいという愛の表現の一つなのかもしれないが・・・
このような関係性は、頑なに自分を曲げることを嫌う我の強い人と、自己肯定感の低い人との間に起こりやすい。
互いを尊重し合い、互いが心を元々の素直な状態に戻すことさえできれば、このようなことは解消していくことが出来ると思うのだが・・・
とは言え人間はなかなか難しいものである。
濃い人間関係の中では
親子・夫婦・兄弟・友人・恋人・上司部下などの濃い人間関係の中では、距離が近過ぎて相手を自分の思い通りにしたいという無意識的で無自覚な欲求が出てくることがある。
その思いに気づいて、すぐに手放すことが出来れば問題は大きくならないが、どうしても相手に○○になってもらいたい!○○してもらいたい!等と過度な期待を知らずの内にかけ続けていれば、相手は次第に窮屈さを感じるようになっていく。
人は本来一人ひとり別個な存在であるが故、その個としての尊厳が保たれていない場合(または本人がそのように感じている場合)、組織や家族や他者の期待に添い続けていくことが難しくなることがある。
今まで真面目に頑張ってきた部下・子供・妻・夫などが、心や体の不調を訴え会社や学校へ行きたくないと申し出るようなら、 そうなった経緯をその人の気持ちに寄り添つつ丁寧に聴くことから始めたいものである。
向き合うことと距離を置くことⅡ
自分自身に対しても向き合うことと距離を置くことは、どちらも大切なスキルである。
自分としっかり向き合って本当にどうしたいのか? 本心は何と言っているのか?
向き合うことで自分にとってベストな選択をすることが可能になることがある。
一方で様々な感情にとりつかれて混乱してしまっている時や、様々な出来事や整理しなければならない事が多すぎてどうしてよいか解らなくなる時などは、混乱した自分から一旦距離を置いて、少し高い視点や遠くの方から客観的に自分を眺めてみたいものである。
そうすることで今の自分の在り様や、必要なこと、手放した方が良いことなどが見えてくる。
それも難しい場合は、あるがままにあなたの話を聴いてくれる人に話を聴いてもらうとよいかもしれない。
何れにせよ悩んだ時は、自分に近づいたり離れたりしながら自分自身を感じていきたいものである。
向き合うことと距離を置くことⅠ
人と向き合うことと距離を置くことは、どちらも大切なことである。
家族・友人・学校や職場の人たちと人間関係を構築していく時、向き合うことと距離を置くことの両方が必要になる。
人と距離を置いてばかりでも、親密さが持てずに寂しくなることがあるだろうし、向き合いすぎても苦しくなることがあるだろう。
人はそれぞれ違った個性を持っているから、その人によって心地良い距離感や親密さも異なっている。
もう少し突っ込んだ関わりをしたいと思っている人もいれば、さらりとした関係を望む人もいる。
様々な人たちと関わっていく中で、共通項の多い人は近く感じ、そうでない人は遠く感じるかもしれない。
家族をはじめ様々な人間関係を大切にしたいと考える時、好きだ嫌いだで感情的になって共依存的になったり断絶したりするよりも、向き合うことと距離を置くことの妙味を楽しめるようになりたいものである。
人は様々な思いを背負って生きている
私たちは両親の思いや先祖の思いを、意識的にも無意識的にもどこかで背負って生きているところがある。
それに気づいて自分の人生に生かしていくことも出来るし、気にも留めずただなんとなく生きていくこともできる。
もし気付いていれば、自分が今味わっている辛い思いや苦しい思いも自分だけがしているのではない、これは先祖代々から受け継いでいる人生のテーマなのだと思えるようになるかもしれない。
自分が情熱的になって取り組んでいることや達成して感動していることも、実は何代にもわたって先祖や両親が夢見ていたことかも⁉と思えてきたりするかもしれない。
そんな風に思えてくると、決して自分は一人ではないのだと実感してくる。
自分の人生を多くの存在達が共に歩み後押ししてくれていると背中に感じることが出来たら、なんと心強いことだろう。
心のつながりを持てないと
人は他者との心のつながりを持てないと、苦しむことが多くなる。
なぜならば、起きる問題に対して全て自分で背負い解決しなければならなくなるからである。
他者との心のつながりが持ち難くなるのは、幼いころの養育者とのコミュニケーション不足や、信頼関係構築が不十分だったことに由来することが多い。
それらを見直しつながりを持てる心への再構築
していくには、それなりの時間と労力が必要となるが、じっくり丁寧に取り組んでいくことが出来れば、それも可能になることが多い。
もし人との心のつながりが持ち辛く苦しむことが多ければ、ご縁があって愛ある人と関係を持つことから始めたいものである。
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問題はいち早く解決すればいいの?
私たちは人生に何か問題が起きた時、解決を急ぐあまりその問題が発生した真の原因に迫ることなく、表面的な対処をしてしまうことが多々あったりする。
問題の表面だけを捉えて小手先だけで対処した場合、その問題が根本的に改善されていなければ、一旦は良くなったかのように見えたその問題が、また再発してしまうことはよくあることだ。
それは人間関係においても、心身の病においても同じことである。
病気になって熱が出れば解熱剤を飲んで熱を下げる。
人間関係がうまくいかなくなれば、その人を無視して避けるようにする。或いはは属している組織を自分が辞めたりする。
これらの対処法をとった場合に、問題はその瞬間軽減し無くなったように思えるかもしれないが、後にまた同じような問題にぶち当たったりすることもある。
そして次に同じような問題に出くわした時は、状況の改善が以前より難しくなっているように感じるかもしれない。
もしそのように感じるようであれば、前回の対処法がいかに表面的で根本的な対処が成されていなかった、という事を現実が物語っているのである。
ゆえに問題は、必ずしもすぐに解決することが大事なのではなく、その問題が起きた本当の理由を知って、真摯に向き合い対応していくことの方が大事なのである。
何度も同じような問題につきまとわれて自分を疲弊させていくようになるのと、 一見大変かもしれないが起きた問題の根本的対処を行い、一つ一つクリアーしていくのとでは、どちらが清々しく生きられるのだろう?
ピンチが訪れた時
人はピンチの時こそ、本当の心の声が聴けるということがあるかもしれない。
普段は思考の雑音に惑わされ迷いが多い人でも、ピンチが訪れ自分に真剣に向き合わざるを得なくなった時に、そうだ本当は○○したかったのだ!と気づくことがある。
そうすれば人生に揺るぎない柱が立つ。
だから人生にピンチが訪れることは決して悪いことばかりではなく、成長のチャンスともいえる。
しかしピンチの渦(ピンチ下で感じる恐怖感や焦燥感などの感情)に飲み込まれてしまえば、間違った方向へ歩を進めてしまい更に人生を悪化させてしまうこともある。
ゆえにピンチが訪れた時には、慎重に対処したいものである。

お彼岸で自分を供養することも
お彼岸で先祖供養も大切だけれど、自己供養することも忘れないようにしたい。
辞書を調べれば、供養とは死者の霊などに、行動(身)と言葉(口)と心(意)の3種の方法によって供物を捧げることなどと書いてある。
自己供養とは、今まで生きてきた自分に感謝をしつつ、労わることが出来なかった体の部分を労わったり、叶えてあげられなかった思い、今の生活を維持するために犠牲になってしまった思いなどに思いをはせ、その思いが自分の中で現在どのように存在しているのかを観てあげることでもある。
心の内に存在する自分が納得していれば問題はないが、納得していないようであれば、今の自分に出来ることはどんなことだろうか?どうして欲しいのだろうか?と耳を傾け寄り添ってあげることも自己供養につながる。
その結果過去の自分が望むようであれば、一緒に行動してもよいだろう。昔通っていた学校や、住んでいた家、または気になる場所や人を訪ねてみるのも一つだ。
そうすれば何か大事なことを思い出したり、気づいたりすることがあるかもしれない。
なんとなくずっとモヤモヤしていた心の奥底の思いが、次第に解き放されていくかもしれない。
